メキシコの革命を描いた壁画の前に立ったとき、私はしばらく言葉を失ってしまったことがある。あの絵に込められた感情は、ただ「歴史」や「政治」という枠では片付けられない、もっと深いものだった。
絵に刻まれていたのは、暴力と哀しみ、そしてそれでも前を向こうとする人間の強さだった。
それがホセ・クレメンテ・オロスコの作品だった。彼の名は、日本ではあまり知られていないかもしれない。でも、彼の描いた壁画は、メキシコの公共空間のあちこちに存在し、人々の記憶に生き続けている。
この記事では、そんなオロスコという画家の「生い立ち」と「作品」、そして「彼の絵に宿る特徴」について、車椅子で生きる私なりの視点から綴ってみたいと思う。プロの評論家でも学者でもないが、誰よりも真剣に心で受け止めて書いている。どうか最後まで読んでもらえたら嬉しい。
ホセ・クレメンテ・オロスコの生い立ちとは?
ホセ・クレメンテ・オロスコは、1883年、メキシコのハリスコ州シウダグアマンで生まれた。彼の家庭はそれほど裕福ではなく、厳しい暮らしの中で少年時代を過ごす。父は鍛冶職人、母は農村教師。芸術に囲まれた環境ではなかったが、幼い頃から絵を描くことが好きだったという。
しかし、彼の人生には突然の悲劇が訪れる。10代の頃、火薬事故により左手を失ってしまうのだ。画家としては致命的とも思える大怪我だった。しかしオロスコは、その片腕だけで筆を握り続けた。
どれほどの苦痛だっただろうか。私も片足に障害を持つ身だからこそ、その「失った部分」への執着と再生の強さは痛いほど想像できる。
若きオロスコは建築を学びながら絵の技術を磨き、やがて革命の激動期を迎えたメキシコ社会と向き合っていく。彼の作品には、その「社会の混沌」と「自身の痛み」が見事に交差していく。
ホセ・クレメンテ・オロスコの絵とは?
オロスコの代表作といえば、やはり壁画(ムラリズモ)だ。彼は同時代のディエゴ・リベラやダビッド・アルファロ・シケイロスと並び、「メキシコ三大壁画家」と呼ばれている。
だが、彼の作品だけは何かが違う。もっと「暗い」、そして「重い」。リベラの作品が明快なメッセージを掲げているのに対し、オロスコは常に葛藤し、疑い、そして絶望しているように見える。
たとえば、グアダラハラのオスピシオ・カバーニャスにある《人間の自由の寓意》では、炎のような筆致で描かれた人間たちが、空を見上げ、どこかへ向かおうとする。
その一方で、まるで天から裁きを受けるように、巨大な人物が剣を振り下ろしている。希望と恐怖が入り混じった構図は、見ていて心をえぐられる。
また、ダートマス大学(アメリカ)の講堂に描かれた壁画《アメリカ文明の叙事詩》も見逃せない。新大陸の発見、征服、教育、戦争、そして機械文明の暴走までを一つの空間に詰め込んだこの壁画には、オロスコの「文明批判」と「人間讃歌」が同居している。
彼は決して単なるプロパガンダには加担しなかった。だからこそ、いま見ても古びないのだ。
ホセ・クレメンテ・オロスコの絵の特徴とは?
オロスコの絵には、強烈な赤や黒が多用されている。それはまるで「怒り」を塗りつけるような感覚だ。一筆一筆が、まるで叫んでいるように感じる。彼の人物描写は誇張され、筋肉質で、時に鬼気迫るほどに緊張感を持っている。
そして、オロスコの大きな特徴は「顔」だ。彼の描く人々の顔は、苦しみに満ち、しかしどこかで希望を捨てていない。涙を流しながらも立ち上がろうとするような、そんな表情をしている。
私には、それがとてもリアルに感じられる。健常者には見えない「内面の叫び」が、そこにはある。
また、オロスコは「階級」や「宗教」、「権力構造」への痛烈な批判を画面に込めた。だからこそ、彼の作品は「歴史の記録」でありながら、「人間の心そのもの」でもある。
最後に
私は時々、オロスコの壁画を見ながら、自分自身に問いかける。「私の中の怒りは、どこへ向けるべきなのか?」「この社会で生きていくとは、どういうことなのか?」と。
彼の絵は、ただ美しいだけではない。心を揺さぶり、問うてくるのだ。しかもそれは、とても静かで、逃れられない問いかけだ。
ホセ・クレメンテ・オロスコは、片腕の障害を持ちながら、世界にその名を刻んだ。彼が描いたのは、単なる壁画ではない。人間の「闇」と「光」、そして「再生」の記録だ。
私のように障害と共に生きる人間にとって、彼の人生と作品は、ただの芸術家の伝記ではない。「立ち上がり続けた証明」そのものだと思う。
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